「新・映像の世紀」第5集 若者の反乱が世界に連鎖した

若者とテレビ。

史上初の国際衛星中継番組。(動画
衛星中継で映像でつながった世界。
東西陣営の壁を越えて、即座に世界各地の出来事が映像伝わる。
プラハの春、ソビエトの介入。
リアルタイムで全世界が目撃したベトナム戦争。

60年代後半、大学生となったベビーブーム世代が世界各地で声を上げる。
その同時性に、テレビの作用は大きい。
日本では大学闘争がその代表のようだけれど、
こういったことが世界的なうねりの中で起きていたことに驚く。

ドイツの状況はまた特別なものだった。(映像
ナチスに政権を委ねた親世代への失望と東西分断。

イギリスのエリート層と警官隊の衝突を収めた映像には、
ホーキングとミックジャガーの姿。(映像

チェ・ゲバラとサルトル。(映像
サルトルの手記から、「若者だけが革命を企てられるだけの怒りと苦悶、成功させるだけの高潔さを持っていた」。

デヴィッド・ボウイのベルリンのライブ。(映像
「出してくれ」と叫ぶ東側の若者。

国際化していく世界と若者の姿を捉えた映像の多い中で、
ビートルズ、ボブ・ディラン、デヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガーといった
アーティスト達の姿が印象に残った。

「新・映像の世紀」第4集 世界は秘密と嘘に覆われた

冷戦。

ジョン・エドガー・フーヴァー、共産主義者狩りとハリウッド。(映像
ペンコフスキー文書、キューバ危機からの核戦争の回避。(映像

冷戦下で繰り返された米ソの代理戦争。
アフガン戦争でCIAの訓練を受ける若者たちの映像。(映像
第1集から見てきた中で一番呆然としてしまった映像だった。
こんな皮肉なことがあっていいのか・・・。

「考え深い」

 ある悲しい出来事について、「考え深い。」としている文を見かけた。

 「感慨深い。」と書きたかったのかなと思ったが、そうとしても違和感がある。そうすると悲しい出来事に喜びを覚えているように読めてしまう。(思慮の深さを表す語句として「考え深い」という形容詞があるが、そうとしても意味を取ることができない文だった。)

 この間違い方は、聞き間違いと意味の取り間違いが同時に起きて生じているというよりは、聞き間違えて「考え深い」という字を頭の中で当てた時に「深く考え込んでしまうような」という意味を作り出してしまって生じているのかな?と想像した。様々な語句の意味が広がっていく流れは、こういったプロセスで起こってきたのかな、とも。

 Twitterで日本語ツイート全体を検索してみると、「感慨深い」の意味で「考え深い」と書いているのであろう意味合いの文も散見される。昨今の名詞の使い方についてのスラング的文法が、「かんがいぶかい」が「かんがえぶかい」に聞こえてしまう可能性を高めてしまっているのかも?

「新・映像の世紀」第3集 時代は独裁者を求めた

番組公式サイトでネット公開されている動画へのリンク付きで、感想をメモ。

この回の中心人物はヒトラー。

ハイデガーのヒトラーへの賛美。(動画

ココシャネルの対独協力。(動画)(関連

国民車計画とポルシェ、そしてフォルクスワーゲンの興り。(動画

ドイツの軍需産業とアメリカ企業。(動画
ここは前回の『グレートファミリー』回でも見た、アメリカ企業と国際政治の動きが引き続き。(第2集に引き続いて、国家と企業のパワーバランスの変遷もとても気になる。)モルガン家と第一次大戦の賠償金について思い出しながら。

ナチスから勲章を受け取ったフォード。(動画
現地の駐ドイツ大使が送った書簡(アメリカがドイツの戦争を起こす可能性を高めているという指摘をしたもの)が印象深い。

独ソ不可侵条約から9日後に第2次世界大戦が始まる。
亡命したドラッカーは、独ソ同盟を予言していた。(動画
「今日は悪夢に過ぎないことも、明日には現実になる。」というフレーズも、大戦に向かう世界のありさまを感じて、強烈だった。

そして、ドイツの冷戦が冷戦へとつながっていく。
米ソの科学者獲得競争、V-2ロケットと大陸間弾道ミサイル。(動画
アメリカに渡ったフォン・ブラウンとアポロ計画。(動画

もうこの頃には政治のすぐ向こう側に大企業の存在がある時代がやってきてしまっていて、第2次大戦においても、経済の都合で世界が大戦に向かっていったという面があったことを知って驚いた。第1集で「イギ・・・リス・・・!!」となり、第2集3集で「アメリカーーーー・・・!!!!」となった。第4集ではどうなるのかな。

学生時代に国語の教科書で読んだエッセイを読み返そうと実家の押入れのもの全部出して教科書を開いたけどそんなエッセイはどこにも載っていなかった話

 表題の通りの記憶パニックホラーです。

 毎年春になると学生時代に読んだあるエッセイを思い出します。山里で暮らす著者がその生活の中で「時間の流れには、春になると元に戻ってくるような回転する流れとまっすぐ進む流れがある」ということに気付き、それを指摘するというものです。
 この指摘は当時の自分にとっては相当に強烈だったように記憶しています。(だからこそ、今になってもこのエッセイの内容を覚えているのでしょう。)カレンダーの月の数や春になると年度が始まるというシステムによって、いつの間にか「春になるとスタートに戻ってくる」という時間感覚が自分の中に相当強く根付いていることに気付かされ、その指摘に深く納得しました。四季が無い世界で生きる人たちにこの感覚は無いのかもしれないと考え、四季の存在が自分の価値観の一部を作り上げているかもしれないことに驚きました。そして、一直線に時間が流れていること、私たちの時間は生から死に向かってまっすく進んでいるというごく当たり前のことを、とても強く意識させられました。
 このエッセイを読んでいる最中のあの「なるほど!」と思ったあの時間は、間違いなく自分の人生に対する捉え方の基礎を作った瞬間の1つだと思っています。


 さて、例に漏れず今年の春もこのエッセイの内容を反芻して新年度に思いを馳せていたのですが、新元号効果もあってか、これだけ思い出すエッセイならば手元にちゃんと置いておきたいなあと思い立ってしまい、行動を起こすことにしました。


 まず、いったいこれは誰の何という作品なのかを調べます。
 高1か高2の国語で読んだ気がしていたので、当時の教科書に掲載された作品の出典をチェック。母校のウェブサイトの当時のシラバスから教科書情報と学習単元を拾って、それぞれの内容を検索してみました。
 その結果、高1で哲学者である内山節さんの随想『季節』を学習していることが分かり、そこから内山先生は東京と山村を往復しながら生活しているというプロフィールもヒット。著者の暮らし方は記憶と完全に一致していて、タイトルもそれっぽい。さらに名前に覚えもあるような気が。恐らくこれだろうと踏んで、実家の押入れから教科書を捜索することにしました。


 教科書をしまい込んだ箱は2段ある押入れの天井側の一番奥にありました。いったん押入れの天井側の段全部の荷物を出し、相当手こずりながらどうにか箱を引っ張り出してようやく対面できました。さっそく目次を見てみます。

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 冒頭1つ目にありました!くたくたになりながら「押入れの荷物全部出す」をやりきった甲斐があったというものです。
 っていうか他の収録内容もタイトルでもう懐かしい・・・。
 で、早速読み返してみたのですが・・・。

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 おもてたんと違う。もう全然違う。絶対これじゃねえ。
 読み切る前に分かりました。正直パッと見で分かりました。面白いことに、手に取って紙面を見た瞬間に急速に内容が思い出されて「絶対これじゃない」という判断が出来ました。たぶん2、3秒ぐらいでの判断だったんじゃないかなあ・・・記憶って面白いですね。
 そして、実際に当時の教科書を手に取ってよくよく考えてみると、学校の授業であのエッセイを読んだ記憶がないことに気が付きます。(「ペルセウスの鏡」や「水の東西」、「旅のノートから」なんて、タイトルを見ただけで読んだなあという感覚になれるのに・・・!)恐らくは、なんとなくの後付けの記憶や印象が脳内で付け加わっていたのでしょうけれど、何の根拠も記憶もないところから「高1か高2で読んだエッセイだ」とぼんやりと勝手に思ってしまっていたわけです。

 しかしながら、著者のプロフィールがなかなか特殊ですから、参ったなあと思いながらも内山節さんの文章であることは間違いはないのだろうと考えました。学年を勘違いしたのかな。
 ということでとりあえず、さらに上の学年で読んだ教科書も開いてみました。

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 内山節不在。そう甘くないですね・・・。

 次が国語の教科書の1冊。あってくれエッセイ。いてくれ内山節。

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 あーいないいないやばいいないいない・・・からの

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 いるーーーーーーーー!内山節いるーーーーーーーー!
 けど、
 「この村が日本で一番」は内容も覚えてるし探してるんと絶対違うーーーーー!ハイ詰みーーーーー!

 いちおう「この村が日本で一番」のページを開いて読んでみましたが、全然違いました。(これも素敵なエッセイですよねえ。)
 もうやけくそで、絶対載ってないってわかってたんですけども、中学校の国語教科書も全部見てみました。

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 3年間内山節不在。「絶対載ってないけどね・・・」って思いながら開くことで『絶対載ってないよなって思いながら開いたら載ってるパターン』に入ってくのにめっちゃ期待してたんですが見事に玉砕しました。これは載ってる流れだったでしょ・・・。
 というわけで、ぜえぜえ言いながら頑張ったのですが、実家押入れの大側索は無駄でした。押入れの荷物全部出しただけ。それだけ。

 あ、ここまで一連の作業で高校と中学の教科書について一気に調べたかのように書いてきましたが、実際は、GW中に1回実家に行って高校教科書を見てがっかりし、「もしかしたら中学のだったかも!?」と考えてGW明けにもう一度実家に行ってます。これだけのために2度も実家の天井側の押入れの荷物を全部出してるわけです。なかなかガックシきました。
 分かったのは、そもそもあのエッセイは教科書で読んだものではなかったということです。まあそれが分かっただけよしとしましょう・・・。

 ということで、教科書を引っ張り出すことでこの件は解決するものと思っていたのですが、甘かったです。どうにかあのエッセイが収録されている本を手元に置いておけるようネット検索をもりもり頑張るのみ。あれこれ検索してみた結果(著者がほぼ間違いなかったのでしばらく検索していたらすぐに判明し)、内山節の「時間についての十二章」というエッセイ集からの抜粋であることが分かりました!!

 ・・・なんだこれ。・・・全く覚えがありません。
 あんまり感慨も湧かないまま、マケプレで注文。

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 無事に手元へ届き、ぺらぺらとページをめくっていくと見事に「第二章 山里の時間」の冒頭に覚えのある書き出しから始まるエッセイが見つかりました。とても懐かしくて、「ああこれだ!」という喜びもありつつ、もう一度読み返せて純粋に嬉しかったです。内容もおおよそ覚えていた通りでした。これで目標は無事達成です!
 ・・・が!全く覚えのないタイトルの本に辿り着いてしまったせいで、見つかった達成感の一方で、「どこで読んだんだろうか・・・」という怖さみたいなものが強く去来してしまいました。すげえ懐かしい、けど、お前はいったい誰なんだ。この恐怖。記憶は後からの印象でいくらでも取り出され方が変わってしまうもの。そんなことは分かっていたつもりでしたが、見事にこれでハマってしまって、逆にちょっと感動すらしている次第です。
 ま、エッセイは手に入りましたし、実家の押入れめっちゃ片付いたんで良しとしましょうね。

 ただ、どうしてもモヤモヤが残るので、このエッセイとどこで出会ったのかについての調査はのんびりと継続することにします。(同世代の方で何か思い出したことがあったらぜひ教えて下さい!)ちなみに、奥さんとは「中学の国語の学習教材に出てきたかテストで解いた説」を有力視しています。
 ってことは・・・また押入れの一番奥から当時のテストの束を取り出さないといけないってこと・・・?