学生時代に国語の教科書で読んだエッセイを読み返そうと実家の押入れのもの全部出して教科書を開いたけどそんなエッセイはどこにも載っていなかった話

 表題の通りの記憶パニックホラーです。

 毎年春になると学生時代に読んだあるエッセイを思い出します。山里で暮らす著者がその生活の中で「時間の流れには、春になると元に戻ってくるような回転する流れとまっすぐ進む流れがある」ということに気付き、それを指摘するというものです。
 この指摘は当時の自分にとっては相当に強烈だったように記憶しています。(だからこそ、今になってもこのエッセイの内容を覚えているのでしょう。)カレンダーの月の数や春になると年度が始まるというシステムによって、いつの間にか「春になるとスタートに戻ってくる」という時間感覚が自分の中に相当強く根付いていることに気付かされ、その指摘に深く納得しました。四季が無い世界で生きる人たちにこの感覚は無いのかもしれないと考え、四季の存在が自分の価値観の一部を作り上げているかもしれないことに驚きました。そして、一直線に時間が流れていること、私たちの時間は生から死に向かってまっすく進んでいるというごく当たり前のことを、とても強く意識させられました。
 このエッセイを読んでいる最中のあの「なるほど!」と思ったあの時間は、間違いなく自分の人生に対する捉え方の基礎を作った瞬間の1つだと思っています。


 さて、例に漏れず今年の春もこのエッセイの内容を反芻して新年度に思いを馳せていたのですが、新元号効果もあってか、これだけ思い出すエッセイならば手元にちゃんと置いておきたいなあと思い立ってしまい、行動を起こすことにしました。


 まず、いったいこれは誰の何という作品なのかを調べます。
 高1か高2の国語で読んだ気がしていたので、当時の教科書に掲載された作品の出典をチェック。母校のウェブサイトの当時のシラバスから教科書情報と学習単元を拾って、それぞれの内容を検索してみました。
 その結果、高1で哲学者である内山節さんの随想『季節』を学習していることが分かり、そこから内山先生は東京と山村を往復しながら生活しているというプロフィールもヒット。著者の暮らし方は記憶と完全に一致していて、タイトルもそれっぽい。さらに名前に覚えもあるような気が。恐らくこれだろうと踏んで、実家の押入れから教科書を捜索することにしました。


 教科書をしまい込んだ箱は2段ある押入れの天井側の一番奥にありました。いったん押入れの天井側の段全部の荷物を出し、相当手こずりながらどうにか箱を引っ張り出してようやく対面できました。さっそく目次を見てみます。

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 冒頭1つ目にありました!くたくたになりながら「押入れの荷物全部出す」をやりきった甲斐があったというものです。
 っていうか他の収録内容もタイトルでもう懐かしい・・・。
 で、早速読み返してみたのですが・・・。

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 おもてたんと違う。もう全然違う。絶対これじゃねえ。
 読み切る前に分かりました。正直パッと見で分かりました。面白いことに、手に取って紙面を見た瞬間に急速に内容が思い出されて「絶対これじゃない」という判断が出来ました。たぶん2、3秒ぐらいでの判断だったんじゃないかなあ・・・記憶って面白いですね。
 そして、実際に当時の教科書を手に取ってよくよく考えてみると、学校の授業であのエッセイを読んだ記憶がないことに気が付きます。(「ペルセウスの鏡」や「水の東西」、「旅のノートから」なんて、タイトルを見ただけで読んだなあという感覚になれるのに・・・!)恐らくは、なんとなくの後付けの記憶や印象が脳内で付け加わっていたのでしょうけれど、何の根拠も記憶もないところから「高1か高2で読んだエッセイだ」とぼんやりと勝手に思ってしまっていたわけです。

 しかしながら、著者のプロフィールがなかなか特殊ですから、参ったなあと思いながらも内山節さんの文章であることは間違いはないのだろうと考えました。学年を勘違いしたのかな。
 ということでとりあえず、さらに上の学年で読んだ教科書も開いてみました。

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 内山節不在。そう甘くないですね・・・。

 次が国語の教科書の1冊。あってくれエッセイ。いてくれ内山節。

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 あーいないいないやばいいないいない・・・からの

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 いるーーーーーーーー!内山節いるーーーーーーーー!
 けど、
 「この村が日本で一番」は内容も覚えてるし探してるんと絶対違うーーーーー!ハイ詰みーーーーー!

 いちおう「この村が日本で一番」のページを開いて読んでみましたが、全然違いました。(これも素敵なエッセイですよねえ。)
 もうやけくそで、絶対載ってないってわかってたんですけども、中学校の国語教科書も全部見てみました。

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 3年間内山節不在。「絶対載ってないけどね・・・」って思いながら開くことで『絶対載ってないよなって思いながら開いたら載ってるパターン』に入ってくのにめっちゃ期待してたんですが見事に玉砕しました。これは載ってる流れだったでしょ・・・。
 というわけで、ぜえぜえ言いながら頑張ったのですが、実家押入れの大側索は無駄でした。押入れの荷物全部出しただけ。それだけ。

 あ、ここまで一連の作業で高校と中学の教科書について一気に調べたかのように書いてきましたが、実際は、GW中に1回実家に行って高校教科書を見てがっかりし、「もしかしたら中学のだったかも!?」と考えてGW明けにもう一度実家に行ってます。これだけのために2度も実家の天井側の押入れの荷物を全部出してるわけです。なかなかガックシきました。
 分かったのは、そもそもあのエッセイは教科書で読んだものではなかったということです。まあそれが分かっただけよしとしましょう・・・。

 ということで、教科書を引っ張り出すことでこの件は解決するものと思っていたのですが、甘かったです。どうにかあのエッセイが収録されている本を手元に置いておけるようネット検索をもりもり頑張るのみ。あれこれ検索してみた結果(著者がほぼ間違いなかったのでしばらく検索していたらすぐに判明し)、内山節の「時間についての十二章」というエッセイ集からの抜粋であることが分かりました!!

 ・・・なんだこれ。・・・全く覚えがありません。
 あんまり感慨も湧かないまま、マケプレで注文。

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 無事に手元へ届き、ぺらぺらとページをめくっていくと見事に「第二章 山里の時間」の冒頭に覚えのある書き出しから始まるエッセイが見つかりました。とても懐かしくて、「ああこれだ!」という喜びもありつつ、もう一度読み返せて純粋に嬉しかったです。内容もおおよそ覚えていた通りでした。これで目標は無事達成です!
 ・・・が!全く覚えのないタイトルの本に辿り着いてしまったせいで、見つかった達成感の一方で、「どこで読んだんだろうか・・・」という怖さみたいなものが強く去来してしまいました。すげえ懐かしい、けど、お前はいったい誰なんだ。この恐怖。記憶は後からの印象でいくらでも取り出され方が変わってしまうもの。そんなことは分かっていたつもりでしたが、見事にこれでハマってしまって、逆にちょっと感動すらしている次第です。
 ま、エッセイは手に入りましたし、実家の押入れめっちゃ片付いたんで良しとしましょうね。

 ただ、どうしてもモヤモヤが残るので、このエッセイとどこで出会ったのかについての調査はのんびりと継続することにします。(同世代の方で何か思い出したことがあったらぜひ教えて下さい!)ちなみに、奥さんとは「中学の国語の学習教材に出てきたかテストで解いた説」を有力視しています。
 ってことは・・・また押入れの一番奥から当時のテストの束を取り出さないといけないってこと・・・?